1560年、桶狭間の勝利後に奉納された土と瓦の信長塀

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熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区神宮一丁目1-1にある神社です。まつられているのは熱田大神。社格は正一位勲一等 式内社(名神大) 尾張国三宮 官幣大社 勅祭社 別表神社。創建は(伝)仲哀天皇元年 (伝)大化2年(646年)と伝わります。


愛知の熱田神宮。信長が残したのは、建物ではなく塀なの?
熱田神宮。愛知の名古屋市南部にあります。
その塀は、1560年の桶狭間の戦いのあとに奉納されたと、神宮に伝わります。
名は信長べい。織田信長が出陣前に必勝を祈り、勝った礼として奉納した築地塀じゃ。
作り方も変わっています。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねました。
信長なら、大きな門や社殿を建てたのかと思った。残したのは塀だったんだね。
表面を見ると、土の中に瓦が重ねられています。飾りではなく、塀をつくる材料です。
熱田神宮の境内には、その信長べいが今も残り、参拝者が近くで見ることができます。
兵庫の西宮神社のおおねりべい、京都の三十三間堂の太閤塀と並ぶ、日本さんだい土塀の一つです。
ただし、祈願と奉納の話は熱田神宮に伝わる由緒です。戦いの勝因を断定する話ではありません。
1560年という年と、土、石灰、油、瓦。名前だけでなく、作られた形にも時代が残っています。
訪れたら、信長べいの表面に見える、重なった瓦を見てください。土の塀の中身が外から分かります。
桶狭間の礼に残されたのは、一枚の記念碑ではない。境内を区切る塀だったのじゃ。
愛知の熱田神宮。三種の神器のひとつが、ここにあるって本当なの。
場所は愛知県の名古屋市熱田区。名鉄の神宮前駅から、歩いて3分ほどです。
ご神体は、草薙神剣。本宮の奥におさめられ、外に出されたことはありません。神職でも見ることはできないとされています。
日本武尊が亡くなったあと、きさきのミヤスヒメノミコトがこの剣を熱田の地に祀ったのが、このやしろのはじまりと伝えられています。
668年、その剣が盗まれた事件が、日本書紀に記されています。
新羅の僧が持ち出したのじゃ。じゃが途中で風雨にあい、迷って戻ってきた、と書かれておる。
剣は18年ほど宮中に置かれ、686年、天武天皇の病がこの剣によるものとされて、熱田へ戻されました。
1560年、織田信長は桶狭間へ出るまえに必勝を祈り、勝ったあと、そのお礼に土の塀を奉納しました。今も120メートルほど残っています。
誰も見たことがないのに、みんなここに集まってくるんだ。
見えぬからこそ、人は刀を納めてきたのじゃ。このやしろに集まった刀は、およそ450ふり。
2021年、境内に剣の宝庫、くさなぎ館が開き、その刀を見られるようになりました。
行ったら、本宮の南のくさなぎ館へ。実物どおりに作った大太刀を手に持って、その重さを確かめられます。刃の長さだけで2メートルを超えます。
ご神体は、見ることができぬ。じゃが、見えぬものを守るために積み上げてきた物なら、そこにある。
その社が、どんな願いごとで信仰されてきたかです。かなうことをお約束するものではありません。
剣そのものが
この社の神である
祭神は熱田大神。草薙神剣を神体とする天照大神をいう、と社では説明している。 日本武尊が東の国からの帰りに、剣を妃の宮簀媛命にあずけた。 媛は占いで熱田の地を選び、そこに剣をまつったのが始まりと伝えられる。 『延喜式』神名帳には「熱田神社一座」とあり、古くは剣だけをまつっていた可能性がある。 社地はもと伊勢湾に突き出た岬の先で、いまは干拓が進んでその面影はない。
『尾張国風土記』の逸文では、日本武尊が「わが形影とせよ」と言い残したと伝えます。 熱田大神を天照大神とする説明は中世以降に整えられたもので、由来には諸説あります。 相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命がまつられています。
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・わかっていないことは「諸説あります」と正直に書きます。参拝の作法を正しい・間違いと決めつけません。特定の社への参拝を呼びかけることもしません。
・「信仰されてきた願いごと」は、その社がどんな願いごとで信仰されてきたかです。かなうことをお約束するものではありませんし、社に順位もつけません。
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